グアム

ドイツのフランス占領(1940年) 1939年、ドイツがポーランドに侵攻したことによって欧州では第2次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国がナチズムの台頭を阻む砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定[4]を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった[5]。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。そんな中、ドイツと同盟関係にあり、中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めてきた。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、第一撃を日本に加えさせる[6]ことで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えられた[7]。パラオ ダイビング 日米交渉の決裂と南進論の活発化 第32代アメリカ大統領 フランクリン・ルーズベルト 米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。 米国立暗号博物館高速バス 格安 九七式欧文印刷機部品 一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナに進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たに援蒋ビルマルートが作られた。 1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」[8](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月28日に南部仏印へ進駐した。 これに対しアメリカ[9]は7月25日に在米日本資産を凍結[10]、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣)。この制裁は石油や鉄類、工作機械などの70%以上をアメリカから輸入していた日本にとって致命的[11]なもので、対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。高速バス 広島 9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。 1941年10月18日に発足した東條挙国一致内閣 戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。石垣島 ダイビング 11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。 11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハル国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[12]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。 宣戦布告と開戦高速バス 横浜 最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。 12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。 書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した[13]。すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略説の根拠となっている(真珠湾攻撃陰謀説)。 また日本海軍航空隊の真珠湾攻撃の前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件が発生していた(ワード号事件)。なお、ワード号事件よりも早く、日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間午前5時30分)にマレー半島に上陸しており、太平洋戦争の戦端はこちらとなる。 日本首脳部の戦略と見通し 日本政府(内閣・陸軍省・海軍省等)高速バス TDL * 1941年9月6日の御前会議前日、昭和天皇が陸軍の杉山元参謀総長に「(太平洋戦争は)絶対に勝てるか?」と訊かれた際、「絶対とは申し兼ねます」と答えている。また11月4日の天皇臨席の軍事参議官会議でも同様の質問がなげかけられたが海軍の永野修身軍令部総長は「予見を得ず」と答え、首相兼陸軍相の東條英機は「戦争の短期終結は希望するところにして種々考慮するところあるも名案なし」と曖昧な返事で逃れるなど、裏付された勝算はなく開戦に突入した。 大本営陸海軍部 陸軍 参謀本部 関東軍首脳部 海軍SEOとは 軍令部 連合艦隊司令部 * 当時連合艦隊司令長官だった山本五十六は日米開戦についてアメリカとの国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)[14][15]と発言している。 開戦時までの日本国内の風潮 戦争の経過 年代順の経過については太平洋戦争の年表を参照 日本軍の攻勢セブ ダイビング 占領地域を広げる日本(1937年から1942年) 1940年6月のフランスのドイツに対する降伏と、その後の親独政権であるヴィシー政権の成立を受け、1940年9月以降日本軍は仏印進駐(現ベトナム)した。これへの対抗措置として、1941年の7月以降イギリスやアメリカ、オランダなどにより日本に対して石油や鉄の禁輸や日本資産の凍結が段階的に行われた。これを契機に、日本と後の連合国となる諸国との関係は緊迫の一途をたどった。 11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐アメリカ大使に手渡されたハル・ノートの内容を受け、日米間の交渉は完全に決裂し、12月1日に行われた御前会議において、事実上軍部に牛耳られていた日本政府はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国に対する開戦を決意した。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対してアメリカ政府との交渉の打ち切りを通告していたことを、アメリカ政府は暗号解読によって知っていたといわれている。 マレー半島に上陸した日本陸軍ビジネスホテル大阪 12月8日に日本海軍によるハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、フィリピンへの空爆、同日行なわれたタイ国境近くの英領マレー半島のコタバルと、日本の同盟国だったタイ南部のパタニとソンクラの陸軍部隊の上陸(同盟を破りタイ領内に軍を進め、マレー作戦の開始)と、香港攻撃開始、2日後のイギリス海軍艦隊に対するマレー沖海戦などの連合国軍に対する戦いで、日本軍は大勝利を収めた。しかし、アジアの独立国だったタイにまで日本軍が軍事侵攻したことは天皇の怒りも買うことになった。宮古島 ダイビング なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告は、駐アメリカ大使館による暗号文の書き起こしとタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、英米への攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった。なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、このように喧伝されることはなかった。 真珠湾攻撃に向かう零式艦上戦闘機 日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。大阪ビジネスホテル また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。